三浦しをん著『舟を編む』を読んだ。引きこまれて一気に読み終えた。そこには、国語辞書編纂の仕事に携わる人たちの一風変わった人間模様が描かれていた。変人扱いされようと、寝ても覚めても日本語の単語や用法のことばかり考えている人たちがいた。

30年前の私だったら、数ページ読んだだけで終わっていたことだろう。なぜなら、点字にはない漢字という表意文字を使う日本語が嫌で仕方なかったので、日本語辞書について書かれたものなど読みたくなかったからだ。視覚障害者が使えるパソコンはなかった時代だ。英語もろくにできないのに、アルファベットのような表音文字文化圏の視覚障害者が羨ましくて仕方なかった。同じ日本人でありながら、同じ文化を共有できていないような疎外感があった。すでに、八点漢字や六点漢字など、漢字を記号化した点字も考案されてはいたが、それらを習得する気力もなかったし、それらを使って点訳されたものも、ほんのわずかしかなかったから、いつまで経っても漢字に対する疎外感は消えなかった。

日本には昔から仮名文字論者がいて、日本語から漢字をなくそうという運動があった。漢字の習得に時間と労力をかけることが無駄だという理由からだった。その時間と労力を他のことに充てなければ、文化も国力も西洋の国々に追いつけないとの主張だった。私は、日本語から漢字がなくなっていたら、どんなによかったことだろうと思っていた。そうなれば、同音異義語も自然淘汰され、普通文字と点字とは同じ文字体系となり、分かち書きについても一緒に議論ができただろう。当時、多くの視覚障害者が使っていた仮名タイプライターによる文書だって、堂々と公にできるのにと思った。多くの仮名文字論者に対し、「なぜ、もっと頑張ってくれなかったのか」と言いたかった。

古くは、近代郵便制度の創始者前島密(まえじまひそか)が、将軍徳川慶喜に漢字廃止を願い出たという。前島は、明治2年にも政府に同じ意見を提出した。その後も、何度となく仮名文字論者が現れては消えたが、その意見が正式な日本語として採用されることはなかった。同じ漢字廃止論でも、国語として外国語を採用することを提案した人もいた。薩摩藩出身で文相となった森有礼(もりありのり)は英語を、小説家の志賀直哉はフランス語を採用してはと提案した。しかし森は、帝国憲法発布の当日、欧化主義者として国粋主義者により暗殺された。志賀は、「フランス語は世界一美しい言葉である」という個人的な好みを掲げていたから、あまり支持されなかったのかもしれない。

だが、視覚障害者もパソコンで漢字仮名交じり文が読み書きできるようになった今、自分達が不便だというだけの理由で、漢字がなくなればいいと思っていた浅はかさを恥ずかしく思う。漢字をなくすということは、長年にわたって育まれてきた日本の文化をも失うということで、ハングル教育が一般化されたお隣の国でも、そのことを後悔する人は多いという。

電子辞書の『広辞苑』を手に入れたときの感動は、今でも忘れない。「この言葉は、この漢字を使う」という、小学生でも知っているようなことを、私は中年になってから知った。暇さえあれば辞書を引き、無限ともいえる言葉の海に遊んだ。もう一度、最初から日本人をやり直したいとさえ思った。『舟を編む』を読み始めた瞬間、あのときの熱い思いが潮流のように押し寄せてきたのだった。

 

毎日新聞社発行「点字毎日」(活字版および点字版)に掲載
日本エッセイスト・クラブ会報(2023年冬号)に掲載