「鳥の声を楽しむのに、名前など知らなくてもいい」と言う人がいる。私も、かつては少ししか知らなかった。それでも、そこそこ楽しめた。だが、名前が分かってくるにつれ、楽しみ方は飛躍的に深まった。名前を知ることで、同じ種類の鳥でも個体によって、あるいは季節によって歌い方が違うこと、樹木の種類や標高によって住む鳥の種類が違うことなどが分かってきた。
桜とチューリップと百合(ユリ)と向日葵(ヒマワリ)くらいしか知らなくても、花を愛(め)でることはできる。しかし、それでは、花について語り合ったり、目の前にない花に思いをめぐらしたりすることはできないのだ。スズメとカラスしか知らずにバードウオッチングをする人はいないし、曲名を知らずに音楽を語る人はいない。
鳥の歌い方を、それに似た言葉で言い表したものを「聞きなし」という。ホトトギスの「てっぺんかけたか」、ホオジロの「一筆啓上つかまつりそろ」または「源平つつじ白つつじ」などがよく知られている。いつ誰が言い始めて、どのように広まっていったのか分からないが、歌い方の特徴をうまく取り入れていて感心させられる。「ほう法華経」、「仏法僧」など仏教に由来したものから、センダイムシクイの「じいや、じいや、起きい」または「焼酎1杯ぐいー」、ツバメの「土食って虫食ってしぶーい」、など、日常会話から生まれたようなものまでいろいろだ。
多くの鳥が、「さえずり」という派手な歌い方と「地鳴き」という地味な歌い方をもっている。春から夏にかけての繁殖期には「さえずり」、それ以外の季節には「地鳴き」をする。両者は、同じ鳥とは思えないほど違う。ほとんどの場合、さえずりのほうが美しいが、地鳴きにもなかなか風情がある。秋、枯れ葉を踏みながら雑木林を行くと、シジュウカラの「ジュージューカラカラカラ」という地鳴きが聞こえる。足下では、わずかに生き残ったコオロギが、今にも途絶えそうな声で鳴いている。そんなときの地鳴きは、わびしくもあり爽やかでもあり、またユーモラスでもある。「シジュウカラ」という名前は、この地鳴きに由来するという説もある。「始終カラカラ言っている」というわけだ。シジュウカラに似たさえずりの鳥に、ヒガラ、コガラ、ヤマガラなどがいるが、これらも地鳴きで「カラカラ」という音を立てている。
ウグイスの地鳴きは「笹鳴き」と呼ばれ、薮(やぶ)の中などで「チャッチャッ」と鳴く。「春は名のみの 風の寒さや 谷の鴬(ウグイス) 歌は思えど 時にあらずと 声も立てず」。春への期待を込めて、ウグイスは遠慮がちにウオーミングアップをしているのだ。
都会のどこにでもいるスズメやカラスやヒヨドリやムクドリやカワラヒワは、1年中、同じような声で鳴いている。もしかしたら、さえずりと地鳴きの区別があるのかもしれないが、私にはよく分からない。
どこにでもいたはずのスズメだが、今はヒヨドリにその座を奪われてしまったようだ。スズメの声を聴くと、なぜかほっとする。枝に群れて、何やら井戸端会議に興じているのを聞くと、「何の噂してるの? 仲間に入れてよ」と言いたくなる。同じように枝で群れていても、ムクドリではそうはいかない。固い結束で、最初から部外者を寄せ付ける気などない。
「バードウオッチング」に対し、鳥の声を聴きに出かけることを、私は「バードリスニング」と呼んでいる。街を歩きながら、あるいは野山や海や川に出かけ、日差しや霧や雨や風の中、ときには真夜中の静けさの中に身を置き、せせらぎや葉ずれの音、土や葉っぱや花の香りに浸りつつ、ときにはおしゃべりをやめて立ち止まり、ときには黙々と歩きながら鳥の声を聴く。それがバードリスニングの醍醐味(だいごみ)なのだ。
毎日新聞社発行「点字毎日」(活字版及び点字版)に掲載)