「つんざきて らいわ いえをも ゆるがしぬ ひとつの まよい きりすてんと す」

これは、5年前のある日の点字毎日歌壇にあった、どなたかの短歌である。雷が家を揺るがし、作者の心の迷いをも突き崩そうとするかのように轟き渡るというのである。これを読んだ瞬間、思わず「そうそう、そうなのよね」と叫んでいた。くしくも、激しい雷雨の中で、この作者と同じ思いに浸ったばかりだったからだ。

その頃、夫を亡くして沈み込んでいた私は、自分のためにも、また、離れて暮らす子供たちに心配をかけないためにも、何とか早く立ち直らなければともがいていた。だが、喪失感は深まるばかりで、いっこうに先が見えない状態にあった。

そんなある日、ベランダに出た瞬間、強烈な雷雨がやってきた。雨は私の迷いを洗い流さんばかりに、これでもか、これでもかと私の全身を打ち続けた。稲妻と雷鳴は私の迷いを焼き尽くそうとするかのようだった。ずっとこうしていたいという思いに駆られ、私はそこに立ちつくしていた。「いつまでもそんなことでどうする!」と自分を叱咤(しった)しながら。

どのくらい経ったのか、気がつくと雨は上がり、夕風の中で鳥がさえずっていた。雪解け水が流れるように、私の心にも新しい風が吹きはじめていた。そして、あれほど落ち込んでいた気分がすっと軽くなっていることに気がついた。不思議な体験だった。その直後、冒頭の短歌に出合ったのだった。作者が切り捨てたかった「迷い」とは何だったのだろうか。その迷いから少しでも遠ざかることができたのだろうか。

私には、もう一つ忘れられない雷雨の体験がある。夫が亡くなる2年ほど前のことだった。その日、夫に不治の病の宣告が下された。病院から戻った私は一人で呆然としていた。予想していたこととはいえ、一縷(いちる)の望みも断ち切られたことで何も考えられなくなっていた。そのとき、猛烈な雷雨がやってきた。それは、これからの闘病生活を暗示しているようでいたたまれなくなった。一刻も早く止んでほしいと思った。それ以来、一人で家にいるときの雷雨に恐怖感を覚えるようになった。

だが、その2年後、ベランダで思いっきり雷雨に打たれるという体験をしてからは、あんなに嫌だった雷雨はむしろ私に清々(すがすが)しさと高揚感を与えてくれるものになった。さすがに、ベランダで雷雨を浴びるようなことはしないが、窓をいっぱいに開き、その轟音に浸る。悩んでもしかたのないこと、早く忘れてしまいたいこと、それらを豪雨が消し去ってくれることを念じながら……。

そんなとき、あの短歌の作者のことが浮かんでくる。お名前も覚えていないのに、ふと懐かしく思い出されるのである。

「わが悩み 流し去らんと 降り続く 雷雨のあとの 風のさやけさ」(靖子)

 

2019年6月記す

 

毎日新聞社発行 「点字毎日」(点字版 活字版)に掲載