日本盲教育史研究会会報 第10号の「連載 盲教育史と私 20世紀の盲教育体験を振り返る」に掲載

半生を振り返って

塩谷 靖子(しおのやのぶこ 声楽家)

 私は今月(2023年11月)で80歳になる。「80歳」という年齢だが、我ながら「信じられない」というか、「ついに」というか・・・。どの集まりに出かけても最年長者。例外は、地元の視覚障害者協会の月例会に参加するときくらいのものだ。私は、「自分が生きてきた年数の二倍分の年数を遡ると、どんな時代になるか」ということを時々考えてきた。40歳のときの80年前は日露戦争の1年前だった。そして、今から160年前の1863年(文久3年)はリンカーンが奴隷解放に署名した年であり、そのわずか10年前は黒船来航の年だった。何と長く生きてきたものだと思うと同時に、とんでもなく遠い歴史上の出来事だと思っていた黒船来航も、たいした昔ではないように思えてくる。この拙文は、「日本盲教育史研究会」の会報の内容として資料的価値はないかもしれないが、長く生きた者として、あまり知られていない昔の盲学校の話や零れ話的なことを書くことで、何かの参考にしていただければ幸いである。あくまでも、一視覚障害者としての自分を中心に、主に学生時代のことを書いてみたいと思う。

上京そして盲学校へ

 1945年3月10日の東京大空襲により全てを失った両親は、1歳半の私を連れて故郷である鳥取県境港市に移り住んだ。親戚の物置に住まわせてもらっての生活だった。飲み水は井戸から釣瓶で汲んでおいたものを使い、洗濯にもそれを使った。東京では、大病院の眼科に通って先天性緑内障の治療を受けていたが、田舎での余裕のない生活では治療もままならず、視力は次第に落ちていき、7・8歳頃には全盲になった。

 田舎では、近所の子供たちとよく遊んだ。お飯事、隠れんぼ・・・。視力の弱い私に対し、子供たちは自然な形で配慮してくれた。お飯事では、材料集めは彼らの役割で、私は料理を作って皿に盛り付ける役割だった。遊びの途中、子供たちは時々私にこう言ったものだ。「のぶちゃんは、東京の盲唖学校へ行って按摩さんになるんだよね」と。私は、それを聞くたびに黙ってしまった。いずれ家族で上京するらしいことは親から聞いていたが、それ以上のことは聞かされていなかった。そして、私もそれ以上のことは聞こうとしなかった。聞いてはいけないような雰囲気を感じたからだ。みんなから按摩さんと呼ばれていた人が、時々、按摩笛を吹きながら道を歩いていた。その笛の音は物悲しく、子供にとっては怖くもあった。

 東京での父の仕事が決まり、私が7歳のときの3月に、妹と弟を含めた一家5人で上京した。

 上京する前、母は綺麗な赤い生地を買ってきて、こう言った。「あんたは東京の盲学校へ入ることになった。寄宿舎というところに入って、そこから学校へ行くことになる。だから、寄宿舎で寝るための布団を作ることにした」と。自分は家族と離れることになるのだと知って驚いた。でも、それ以上のことを聞く勇気はなかった。やはり「ただならぬこと」が私を待ち受けているのだと思った。

 上京してすぐ、父と一緒に盲学校へ行った。学校は春休みに入っていた。「もう締め切ったので入学はできない」と言われ、父は慌てた。東京には盲学校が1校しかないと思っていたらしい。「(東京)教育大学附属盲学校なら、まだ間に合うかもしれない」と言われ、すぐにそちらへ向かい、何とか間に合うことができた。後で分かったことだが、最初に行ったのは文京盲学校だったのだ。

 附属盲学校(現筑波大学附属視覚特別支援学校)では、よほどの事情がない限り、東京に住んでいる子は寄宿舎に入ることはできなかったので、私としては心からほっとした。親にとっては、通学の付き添いという新たな問題が起きたことになる。幼い妹と弟がいたため、近所のおばさんに頼むことになった。講堂で行われた入学式のときに聴いた校歌には感動した。高等部のお兄さんやお姉さんたちによるオクターヴ違いのユニゾンの重厚な響きに圧倒されたのだ。学校には、ピアノや電蓄など、初めてみるものがたくさんあった。

 国鉄の国分寺駅から徒歩30分の所にある家から学校までは、片道1時間半ほどかかった。飲み水は井戸水ではあったが、釣瓶からポンプに変わった。3年生で高田馬場に引っ越すまで、この生活は続いた。

 電車の中では、募金箱をもってアコーディオンを弾く傷痍軍人を毎日のように見かけた。子供ながらにも、それが嫌で仕方なかった。演奏する曲は、物悲しい戦時歌謡ばかりだった。ほとんどが手足に障害を受けた人たちだった。失明した傷痍軍人もたくさんいたはずなのに、見かけたという話は聞いたことがない。「見えないと一人で電車の乗り降りをするのも難しいからね」と大人たちは言っていた。

 当時は、小学部の先生なのに、日本語点字の読み書きもできない人もいた。期末試験のときには、それぞれの答案用紙を別の子に読ませて採点した。だから、私たちは、仲のいい子には、いい点数が取れるように操作したものだ。また、今で言うところのカルチャーセンターで、こっそりアルバイトをしていた先生は、講師紹介に「東京教育大学附属小学校教諭」と書いていた。その他、今だったら問題になりそうな先生がたくさんいたが、先生たちも親たちも、見て見ぬふりをしていた。そんな中にあって、小学部の下田知江先生と志賀静男先生は、今でも強く印象に残っている。

 下田先生は、いろいろな種類の触地図や、触って分かる理科の実験装置を作るために、夜遅くまで学校に残っていた。それらを私たちに見せては改良を重ねていった。そうすることが、楽しくて仕方ないという様子だった。

 音楽の志賀先生のおかげで、私たちは3年生くらいのときに点字楽譜というものを身につけることができた。当時は、全国的にも点字楽譜のできる音楽教師はほとんどいなかった。そのため、中年以降の視覚障害者で点字楽譜の読める人はほとんどいないというのが実情だ。当時、NHKラジオに「声くらべ腕くらべ子供音楽会」という番組があり、志賀先生は、何人もの小学部生を出場させた。歌や楽器演奏で、晴れの舞台に立てる喜びを味わわせたかったのだ。私も出場して童謡を歌ったことがある。出場が決まると、親たちは親戚や知人に電報で知らせたものだ。下田先生も志賀先生も、一部の教師から「目立ちたがり」という陰口を叩かれていたことを後で知った。

 中学部も後半になるあたりから、全盲であっても一人で通学する者も増え始めた。今から思えば信じられないことだが、点字ブロックなどないホームを歩いて電車の乗り降りをしたものだ。誰がどこで落ちたという話はよく聞いたが、死亡事故に至った例はそれほどない。というか、報道されなかったので知らなかっただけかもしれない。私も、ホーム転落経験者の一人だ。当時は「養護・訓練」(現在は自立活動)なる課目はなく、先輩たちに聞いたりしながら、自分で単独歩行を身につけたものだ。それができない人は、卒業しても一人で歩くのが難しかった。

理療か音楽か

 中学部を卒業すると、高等部の理療科か音楽科に進むことになる。音楽科に進む生徒は1学年に1人くらいだった。そして、ほとんどが、三弦や箏曲などの邦楽専攻だった。邦楽は、視覚障害者の伝統的職業として定着していたからだ。また、洋楽を学ぶためには、ピアノを持つことが必須だったが、戦後まもない当時、たとえアップライトであっても買うことのできる家庭は少なかったし、さらに、洋楽を職業にすることは、日本では難しかった。特に、視覚障害者の場合、ピアノの複雑な点字楽譜をすぐに手に入れることの難しさがある。また、暗譜しなければ演奏できないというハンディもある。

 先輩の田中禎一さんが、音楽科でなく理療科に進んだことも、大きな衝撃となった。彼は、全日本学生音楽コンクールのピアノ部門で、東日本大会の第2位となった。彼が中学部2年か3年のときだった。山根銀二氏など当時の著名な評論家たちからも高い評価を受け、将来を嘱望されていた。彼の弾くベートーヴェンの熱情ソナタは、底知れぬ深さをたたえていた。それがNHKラジオから流れるのを聴いた人たちの誰もが、彼は音楽家としての道を歩むものと思っていたのだが、そうはせず理療科に進んだのだった。

 日本では、理療も邦楽も、中世・近世以来、視覚障害者の大切な職業だった。そして、邦楽の分野には宮城道雄という天才がいた。

 宮城が亡くなった朝のことは鮮明に覚えている。私が6年生のときだった。朝早くから、宮城道雄が亡くなったというニュースがラジオから流れていた。夜行列車から転落したという。62歳の若さだった。学校へ行くと、朝礼の時間に先生がその話をした。みんな黙っていた。すすり泣く声も聞こえていた。

 私も小学部3年の頃から箏を習っていた。その頃の盲学校では箏を習う子が多かった。特に女の子の場合、半分以上が習っていたように思う。理療か邦楽か、二者択一となれば、「女の子なら邦楽を」というのが親心だったのだろう。当時は、理療科を卒業した者の多くが旅館や温泉場での仕事に就いていたという状況もあったからだ。

 箏を習い始めた私は、親が誰かに譲ってもらった箏を毎日のように弾いていた。箏の先生は、附属盲学校音楽科を卒業した森雄士先生だった。森先生は、練習する曲の点字楽譜を毎回パーキンスブレーラーで打ってくださった。私が、志賀先生のおかげで点字楽譜が読めたからだ。レコードプレイヤーもテープレコーダーもないなかで、それは大いに助かった。晴眼の弟子は、五線譜でなく、糸譜と呼ばれる楽譜を使っていた。

 最初のうちは、新曲と呼ばれる曲の練習だった。新曲というのは、宮城作品を初めとする新しい時代の曲のことだ。かわいい曲、抒情的な曲、華やかな曲、どれも好きだった。宮城作品もいろいろ弾いた。

 そのうち、古曲のレッスンも入るようになった。古曲というのは、江戸時代から引き継がれている伝統的な曲のことだ。子供にとっては、良さも分からず、難解で退屈なものだった。ただ、その中で、八橋検校作曲「六段の調べ」と、吉沢検校作曲「千鳥の曲」だけは大好きだった。特に「千鳥の曲」の中の波や風の描写には、西洋風の輝きと抒情性を感じたものだ。

 古曲のレッスンばかりが続くようになると、次第に耐えられなくなってきた。そして、ついに「もうレッスンをやめたい」と、両親に訴えた。中2の頃だった。もう少し我慢して続けていれば、新たな道が開けたのかもしれないけれど、私にとっては、もう限界だった。

 箏にまつわる思い出として、今でも忘れられないことがある。それは、宮城道雄先生の伴奏で、宮城道雄作曲の童謡を独唱したことだ。森先生と志賀先生が、私を推薦してくださったのだった。拍手の中で聞いた「ありがとうね」という宮城先生の温かい声を、今でも覚えている。宮城先生が、不慮の事故で亡くなる1年か2年前のことだった。

 かくして、私の音楽への道は終わった。残されているのは、理療科に進む道だった。先輩の中には、理療科を卒業してから大学へ進んだ人もわずかにはいたが、あくまでも例外中の例外だった。

高等部へ

 「高等部に普通科ができる」という話が持ち上がったのは、私が中1の終わり頃だった。「中学を終えて、すぐに職業教育を受けるのではなく、まずは3年間、一般教養を身に付け、それから理療科に進むのが望ましい」というのが、その主旨だった。それを見越して、すでに2部専攻科という3年コースの理療科もできていた。そこでは、一般の高校や大学を終えてから視覚障害者になった人たちが学んでいた。

 音楽科に行かないとなると、中3を終えた後の選択肢としては、これまでどおり5年コースの理療科へ行くか、新しくできた3年コースの普通科から2部専攻科へ行くか、普通科から一般大学に行くか、ということになる。

 普通科ができたのは、私が中3を終えた1960年の4月だった。普通科に進んだのは、私を含めて3人だけで、後の十数人は5年コースの理療科に進んだ。音楽科生として入ってきたのは、後に世界で活躍することになるヴァイオリニストの和波孝禧さんだった。

 私の他に、普通科第一期生となったのは、後に大学入試センター教授となった藤芳衛さんと、井上経章(つねあき)さんだった。藤芳さんは、最初から大学進学を目指していた。井上さんは、体が弱かったが経済的に恵まれた家庭の一人っ子だったので、卒業後は無理をしないで好きなように暮らしていくつもりだと言っていた。

 私はといえば、大学への憧れはあったものの、ほぼ2部専攻科への進学を決めていた。ほとんど前例のないことへの挑戦は怖かったし、家庭の経済状況のことを考え、早く就職しなければという焦りもあった。その頃には、子供の頃から何となく持ち続けていた理療に対する不安感も、ほぼ払拭できていた。治療院で働く道、開業する道、病院で働く道、そして、盲学校の理療科教師になる道などの選択肢があったからだ。ただし、病院への就職は、ほぼ弱視者に限られていた。

 できたばかりの普通科は、普通科とは名ばかりで、多くの授業を進度の違う同じ学年の理療科の生徒と一緒に受けた。わずか3人だけの授業のために多くの時間と労力を費やすことはできなかったのかもしれない。普通科用の点字教科書もそろっていなかった。どの科目も、これまで通り、普通高校用でなく職業高校用のものしか出版されていなかった。例えば、物理や化学は5単位用でなく3単位用しかなかったし、数学は数学Tまでで、数学Uや数学Vはなかった。その足りない部分を自分たちでなんとかするようにとのことだった。今であれば、「普通科を作っておきながら、教科書の用意もないなんて」と、生徒からの抗議があるはずだが、私たちは黙ってそれを受け入れたのだった。

 まだ普通科というものがない頃にも、一般大学へ行ったり聴講したりした先輩たちがいた。私たちは彼らの伝を頼って音訳をしてくれるボランティアを紹介してもらった。そして、教科書や参考書をオープンリールのテープに録音してもらい、それをコピーして使い、後輩たちにも分けてあげたものだ。特に、数学や物理の本をテープで聞いて理解するというのは至難の業で、テープを聴いては止めて、自分なりの点字のダイジェスト版を作ったものだ。数式の読み方には一定の方式のようなものがあるが、それは特にマニュアルなどがあったわけではなく、読み手の判断やセンスに左右される。音訳者の一人に、こちらが何も指示しないのに、完璧な読み方をしてくださる方がいた。その方には数学や物理をお願いしたのだが、書かれている順に読むのではなく、聴き手に分かりやすいよう、優先順位を考えて読んでくださっていて感心したものだった。ご自身、理系の仕事に携わっておられるとは聞いていたが、数年後の1965年、朝永振一郎氏が「くりこみ理論」によってノーベル物理学賞を受賞したとき、その音訳ボランティアが朝永氏夫人であったことを知ったのだった。

 私たちの次の年から、普通科の生徒数は10人近くになり、卒業後、大学に行く人と2部専攻科に行く人とに分かれた。

 大学を出ても就職先がなくて、2部専攻科に戻ってくる人もいた。そのような人たちの中には、自分のことを「出戻り」などと自虐的に言う人もいた。Mさんが戻ってきたとき、「理療は盲人の古里」というようなタイトルで『点字毎日』に寄稿した理療科の教師がいた。「所詮、盲人には理療しかないのだから、余計なことは考えずに、最初から理療科に行くのが幸せなのだ」という主旨だった。それを読んだ人たちの中に、賛否両論の声が広がった。

 高等部3年になって、数学の授業を受けるのは私だけになった。普通科3人のうち、藤芳さんは病気で休学、井上さんは数学Vを選択しなかったからだ。

 私が大学に行かないことを数学の尾関育三先生に伝えると、受験勉強をするかわりに、高等数学の入り口あたりの興味深い話をしてくださった。私が、数学について、わずかながら憧れのようなものを持っているらしいと気付かれたからかもしれない。

 また、世界的に有名な女性数学者や全盲の数学者のことをよく話してくださった。偏微分方程式の研究で有名なソフィア・コワレフスカヤのこと。環論の重要な概念である「ネーター環」の提唱者で理論物理の基本定理「ネーターの定理」を世に出したエミー・ネーターのこと。位相群論、連続群論などの発表で知られる全盲の数学者レフ・ポントリャーギンのことなど。

 先生は「この関数をテイラー展開で表してごらん」などと、期限のない宿題を出したりした。結果を出すのに何日もかかることもあったが、それは至福の時間だった。

 尾関先生は全盲で、盲学校の理療科を出た後、大学で数学を学んだ。当時、全盲者の受験を認めていた大学はほとんどなかった。まして、理系の学部・学科に関しては皆無だったから、先生は全盲者の受験を認めた東京教育大学教育学部に入り、教員免許取得のための科目として数学を選んだ。もちろん、その頃は点字の参考書もテープ・レコーダーもないから、アルバイトの学生などに読んでもらい、自分で点字のダイジェストを作ったという。聞くだけで気が遠くなりそうな話だ。数学の教授たちは好意的で、板書を読み上げてくれたり、試験では口述による解答を認めてくれたそうだ。全盲者として、日本で初めて高等数学を学んだ人と言えるだろう。教員をしながら、50歳近くなって再び数学の研究を始め、定年退職する60歳のとき「SL(5)×GL(4)に係る正則概均質ベクトル空間の超局所構造について」という論文で、京都大学から理学博士号を授与され、マスコミでも広く報じられた。この年齢での理学博士号の取得は珍しいという。

 数学は、紙と鉛筆さえあればできる学問だ。記憶力のいい人なら、それすらいらない。数学の、ほんの麓しか知らない私だが、そのことに美しさを感じたのだった。

 高3の後、2部専攻科に進んだ。クラス5人のうち、女子は私一人だった。一般の高校からの3人、大学からの一人だった。体育以外は、全て理療科目だった。理療科目の中で、私がどうしても馴染めなかったのは、漢方の授業に出てくる陰陽五行論だった。三療(あん摩マッサージ指圧、鍼、灸)全体に共通する法則とのことだった。しかし、それにこだわっていたのでは先に進めない。だから、私は陰陽五行論のことは忘れ、ただただ教わった通りのやり方で治療をすることに徹した。学校の治療室に通ってくる患者さんたちに喜んでもらえればいいと思った。そして、実際、「よくなりました。ありがとうございました」という言葉をたくさんいただくことができた。

 私が理療の免許を取る頃になると、我が家の経済状態はかなりよくなっていた。父は安月給とはいえ安定した公務員だったし、母はフルタイムの仕事に出ていた。弟はまだ高校に入ったばかりだったが、高校を卒業した妹は働き始めていた。そして、両親は私に、「免許を取っても、すぐには働かなくてもいいよ。大学に行きたければ行きなさい」と言った。「大学」という言葉に、私の気持ちは動いた。だが、そうは言われても、受験に必要な普通科目は全然勉強していないし、しかも、もし数学をやるとすれば、その頃、理系の学科の点字受験を認めている大学はまだなかったから、新たに交渉しなければならない。また、もし入学できたとしても、その後が問題だ。私には、とてもできそうもない。でも、両親もそう言ってくれることだし、せっかくのチャンスなのだから、だめもとでやってみようと思い始めていた。うまくいかなくても、理療の免許があるわけだし、という気持ちも大きかった。

大学へ

 尾関先生にそのことを話すと、先生はいくつかの大学に当たってくださった。そして、東京女子大が一番可能性が高いとのことで、何度かの交渉の結果、点字受験させてもらえることになった。結局は、理療科卒業後、1年間の受験勉強を経て東京女子大学文理学部数理学科に入学したのだが、この1年間は生まれて初めてと言っていいくらいの猛勉強をした。後にも先にも、あんなに勉強したことはなかった。ラジオの文化放送で毎晩放送している旺文社の大学受験講座を聞き、点訳・音訳をしてもらった参考書で勉強した。貴重なこれらの参考書は、同じように受験勉強をしている後輩の間をあちこち行き来したものだった。私立大の場合、受験科目は普通は3科目だったが、東京女子大はなぜか当時は5科目だった。社会科は世界史、理科は物理を選択することにしたが、長い間、普通科目から遠ざかっていた身には、調子を取り戻すだけでも時間がかかった。

 私は、小学部に1年遅れで入り、3年間を理療科で過ごし、1年間を受験勉強に費やしているから、大学に入ったときは、クラスメートたちより5歳も年上だった。大学のクラスは40人ほどで、当然みんな女性だった。健常者ばかり、女性ばかりの中での勉強は初めてだったので心配もあったが、慣れれば思ったほどでもなかった。そして、自分が井の中の蛙であったことを思い知らされることがよくあった。盲学校時代、私はある程度、自分の実力に自信を持っていた。ところが、それは人数の少ない盲学校の中でしか通用しないことだったと気付いた。大学のクラスには、まだまだ上がいたのだ。それは理数系にとどまらず、他の分野においてもそうだった。しかし、それを鼻にかけたり、逆に妬んだりするような人もなく、みんなそれぞれのペースで勉強し、アルバイトをし、遊んでいた。

 河部裕子さんは、位相幾何学に高い能力を見せて教授からも一目置かれていた。後に東大の大学院に進み、研究者となったのだが、当時から偉ぶることもなく、他の人たちも彼女を尊敬し、応援していた。そして、私も大いに彼女に助けてもらった。確かに、テキストの準備は大変だった。授業に間に合わないこともしばしばだった。しかし、クラスメートたちが私のためにローテーションを組んで音訳などをしてくれたので、なんとか授業についていくことができたのだった。その頃、オープンリールに代わって、カセットテープが出回り始めていた。

 大学の大先輩だった戸塚愛子さんは、数学の参考書や論文を中心に、的確な点訳をしてくださったものだ。これらは大変貴重なもので、その後、理数系に進んだ視覚障害学生たちによって引き継がれ、大いに役立ったようだ。

 私が取ったゼミは、根岸愛子先生の抽象代数学で、そのとき受講したのは私1人だった。群れ、環、体など、それぞれ異なる代数的構造を持つ抽象的な集合を取り扱う分野で、計算の苦手な私には一番合っているように思えた。逆に、一番向いていないと感じたのは数理統計学だった。1部だけではあったが、尾関先生が話されていた全盲の数学者・レフ・ポントリャーギンの群論が出てきたときは感動したものだ。

 根岸先生の最後のゼミの後、先生が入れてくださった熱いコーヒーをいただきながら、先生のアメリカ留学時代の話を聞いたり、二人でシューベルト歌ったりした。それは、二人だけの、ささやかな修了式のようでもあった。それから30年近く経ったある日、私は東京女子大の大講堂で歌っていた。同窓会の方々が、私のリサイタルを企画してくださったのだ。そのとき、1人の同窓生が、「実は、根岸先生と一緒にあなたが歌っていたのを、あのとき私はたまたま研究室の後ろの方で聴いていたんです。あの印象的な歌声は今でも忘れられません」と述懐してくださった。

 当時は、いわゆる純粋数学がメインで、まだ応用数学の科目は少なかったが、時代の流れで学校にもトスバックという東芝のコンピューターがやってきた。1960年代から70年代にかけてのコンピューターは、一部屋を占領するくらい大きなもので、電子計算機とも呼ばれ、今のパソコンとは似ても似つかないものだった。私たちは、フォートランというプログラミング言語を用いて、トスバックで数値解析などをやった。当然、このコンピューターからは音声も点字も出力されなかったので、私1人では操作できず、クラスメートに手伝ってもらった。授業以外でも、このコンピューターを使って、みんなで遊んだものだ。どちらかというと、整数論上の問題で遊ぶことが多かった。

 当時、大きな企業や研究所には、この大きなコンピューターがあり、そこではプログラマーというものを必要としていた。だから、卒業した後、プログラマーとして企業や研究所に就職する人が多かった。第一線で活躍している女性のプログラマーたちが、時々学校に来て、説明会を開いたりしていた。

 4年生に差し掛かる頃になると焦りが出てきた。自分で操作できなければ、プログラマーとして就職できるわけもない。かといって、いまさら理療の免許を生かすのも躊躇された。でもやはり、そうするしかないのかもしれない。「理療は私の天職だ」と言って、仕事にまい進できる人たちが羨ましかった。これまでも、理療のアルバイトはしてきたが、天職だと思えたことは一度もなかった。4年生の秋くらいには、多くのクラスメートがプログラマーとして内定を貰い、その他の職種でも次々と就職先が決まっていく中で、私だけが取り残されていった。

就職

 卒業直前になって、プログラマーをやってみないかという話が舞い込んできた。当時、東京都身体障害者福祉センターのケースワーカーだった田中徹二さん(現・日本点字図書館会長)から持ち込まれた話だった。アメリカに全盲のプログラマーがいて、独自のやり方でコンピューターから点字を打ち出しているらしいという情報を田中さんから聞いた。この話が決め手となり、嘱託として試験的に雇ってみようということになった。嘱託でも何でもいい、私にできることなら何でもやってみようと思った。

 その会社は日本ユニバック株式会社(後に日本ユニシス株式会社、現BIPROGY株式会社)というソフトウェアの会社で、当時は赤坂にあった。4月から通勤を始めた。卒業と同時に仕事ができるなんて思ってもいなかった。盲学校から大学に行った先輩や後輩の多くが何年も就職浪人をしているというのに、なんとラッキーなことだと思った。

 会社ではとりあえずフォートラン・グループに配属して様子を見ようということになった。当時、視覚障害者がコンピューターを使うための補助機器は皆無だった。最低限、読む手段がないとどうしようもないので、まずはプリンターで印字される普通の文字を点字で打ち出すための点字変換用ソフトを作ることになった。そうすれば、少なくとも自分の仕事に関しては、コンピューターから出てくる文字を独力で読めるようになる。点字専用のプリンターを開発するには時間とお金がかかるので、プリンターはユニバックで使われていたラインプリンターをそのまま使うことにして、ソフトだけで点字を打ち出そうというわけだ。アメリカで使われているコンピューターとはプログラミング言語が違うため、独自に開発する必要があった。

 点字の1文字は、縦3行、横2列の6点でできているので、活字の3行2列の6個の文字、つまり2個のピリオド、2個のコンマ、2個のアポストロフィーを使って点字の1文字を表すというアイディアだ。6点全てをピリオドにしなかった理由は、そのようにすると縦長の点字になってしまって読みにくいからだ。

 しかし、このようにして点字を紙に打ち出しても、単に黒いインクで点字の形が印字されるだけで、触っても分からない。分かるようにするには、黒い点の部分が、例えわずかでもいいから浮き上がらなければならない。そこで、クッションの働きをする布を使うことにした。プリンターはハンマー、紙、インクリボン、活字ドラム、という順に並んでいるが、紙とハンマーの間に、デニムという厚手の木綿の生地を1枚はさむことにしたのだ。デニムがはさんであれば点が押し出されるので、インクが付くのと反対側の面に点字が浮き上がるわけだ。

 このようにして打ち出した点字はかなり大きくて読みにくかったが、既存のラインプリンターをそのまま使用しているので、それはしかたがないことだった。また紙も点字専用ではなく薄いプリンター用紙をそのまま使ったので、とても読みにくかった。しかし、これで読む手段ができたということで嬉しかった。いざ印字するとすごい速さで点字が打ち出され、とても感激したものだ。かかった費用はわずかデニム1枚の値段だけだった。このソフトは「ブレール・トランスレーター」と名付けられた。50年近く前に打ち出した、この記念すべき点字は、今も押入れの奥で眠っている。そして、その一部は母校の盲学校の資料室にも置いていただいている。どこにでも点字プリンターが置いてある今の時代、もはや化石的な資料になってしまったかと思うと、嬉しいような寂しいような複雑な心境だ。

 ユニバックで私が最初にいただいた仕事は、とても楽しいものだった。コンピューターの会社なのに、当時なぜか社内の事務仕事は手作業で行われていたので、それをプログラム化するという仕事だった。いきなり、そんないい仕事をもらえて嬉しかった。後で聞いた話によると、私が退社してからも5〜6年間はそのプログラムが重宝に使われていたそうで、そのことを聞いたときは無性に嬉しかったものだ。

 さて、この仕事が終わると、次は何をしたらいいかということになった。ユニバックでは、みんなと連携してやる仕事がほとんどだったが、私の場合、他の人の資料を見ることができないので、結局、自分ひとりだけでできる仕事ということになる。しかし、そのような仕事はほとんどない。そうなると、私はこのままここにいても会社や同僚に迷惑をかけるばかりのような気がしてきた。自分にとっても会社にとっても、もう断念したほうがいいのではないかという気持ちに傾いていった。

 視覚障害プログラマーのパイオニアとして、なんとかもう少し頑張ってみようとは思ったのだが、もう精神的に限界だった。そして、1年半ほどで退社した。

 入社とほぼ同時に、私は結婚していた。主婦業と仕事を両立していきたかったのだが、その夢は破れたのだった。

終わりに

 私が大学に行った意味は何だったのだろうかと思うことがある。もちろん、深遠な数学の、ほんの入り口だけでも垣間見ることができたことは幸いだった。

 また、私が理系の学科に入学したことが、その後に続く視覚障害の理系志望者にとってプラスになったかもしれないし、また、挫折したとはいえ、その後に続くプログラマーにとっても、パイオニアとして多少なりとも貢献できたのかもしれない。

 現に、その後、理系の学部・学科の点字受験を認める大学も増え、学校や研究所や、IT関係の会社で働く人も出始めた。

 今、理系でも文系でも、素晴しい能力を持った視覚障害者たちが、いろいろな分野で活躍するようになった。

 多くの若い視覚障害者たちが、その能力を存分に発揮して、勉強や仕事ができるようになることを心から願っている。

 退社後、家事・育児のかたわら、頼まれて家庭教師をやったり、盲学校の数学の非常勤や、大学受験の模擬テストの答案の添削などをやった。添削といっても、旺文社から送られてくる数学の答案をアルバイトの学生に読んでもらい、そこに私からのコメントを書き込んでもらうという非常に効率の悪い仕事で、これは長続きしなかった。

 その後に私が長年関わり、多くを学ぶことになったのは、盲ろう者への通訳だった。

 夫は9年前に亡くなり、今、私は一人暮らしをしている。ありがたいことに心身ともに元気で過ごすことができている。 今年に入ってから毎朝、離れて暮らす子供たちに電話するようにしている。といっても、話はせずに、着信履歴だけを残してすぐに切る。「今日も元気だよ」というサインだ。そして、中年になってから始めた声楽で、いくつかのコンクールに入選・入賞したことを機に、時々ステージで演奏もさせていただいている。また、「点字毎日」(点字版および活字版)への連載の他、いくつかの雑誌にエッセイを書かせていただいている。

 全盲というハンディを負った身ではあるが、多くの人々のおかげもあって、まずまず幸せな人生を送ってこられたと、黄昏を迎えた今、しみじみと想うのである。